昭和48年11月18日 特別奉修委員
今日は正義さんところの( ? )のお礼のお祭やら、その式典やら、( ? )、おかげを頂いて朝その事をお願いさせていただきましたら、合楽にひれいを移すという事を頂いておったが、本当に合楽で何か行事があっておるような感じでした。合楽教会のあれだけのテントがいっぱい張られておるし、合楽の、行ってからたまがったんですけれども、井上さんあたりのような、青年じゃなくてから若婦人の方達の、がみんな正装でお手伝いにみえとったりしましたり、もう本当に合楽のひれい、もう百五十名からのお客さんだったそうですが、たくさんの人がみえて、もう本当にお天気にも恵まれましてから本当にいろいろなおかげ、いろいろな意味でおかげを頂きましたが、私はあちらへ行ってからすぐ本当に感動しましたのは、あちらの神様にお礼させてもらって、こう二階にお祭りしてありますから、したらあの、御霊様といって別にお祭りしてませんけれども、写真を、お父さんのお写真の前に御霊様を祭って、御礼ができるようにちゃんとしてありまして、小さいこれの半分ぐらいな低いお三宝が四つ並べてあって、それに一様な茶飲み茶碗が四つお供えしてあるんですよね。私はそれを見た途端に感動したんです。毎朝、いわゆる仏教で言うなら( お茶と? )というわけでしょうかね。お茶が自分の両親でもあろう、または家内の両親でもあろう、この四つという事に非常に私感動して、まああれが正義さんの信心なんですけれども、夕べお礼に出てきてからですもん、夫婦でお礼に出てきました。そしてから、もうしきりにあの二人で、夫婦で言い訳しますもん。本当すんません、二階に上がって頂くちいっちょん気が付きはせじゃったもんじゃから、お神様には何にもお供えせんのに、そげなこっちゃなかがのとまあ言うたものの、本当に正義さんの信心が、もう親孝行の一念が、例えばああして死ぬか生きるかといったような病気をして、もう親の( ? )、それこそあの、に(かんなをかける?)ような思いをさせたという事が、もうこれ、自分が健康になったらこの親に孝行せにゃ、喜んでもらわにゃ安心してもらわにゃというのが正義さんの信心ですからね、下のお座敷にもですけれども、(思親多幸?)と、親を思う事が一番大きな幸せだというような意味の事が額にあがっております。お神様の部屋へ参りますと、孝一筋という、どなたが書かれたのか知らんけれども、親孝行の孝一筋という額が上に上がってます。ですからもう本当にあの、金光様の御信心は親孝行のできんもんじゃ本当のおかげは頂かれないと私がいつも申しますように、親孝行がしとうてたまらんという感じですね。ですから、ところがもうぼちぼちあの人の信心も、もういっちょ上の親がある、もう一つ上の親があるというところに気が付いた信心になっていかなければ育っていくような(繋がらないですね?)。神様に( ? )通いますね。親を思う情というもの、その情はそのまま天地に通ずるものですから。
例えばんなら親をどんなに大事にしたというても、撫でさすりしたからというても、病気しておったら困りますもんね。ですから、もういっちょ上の親を大事にすると、なら親が健康になります。これは例えば私の、私が親孝行したいばっかりの一念が私の初めの信心だったというても間違いない、親孝行したいばっかりでしたが、だんだん分かってきよったら、これは、これはもういっちょ上の親があるというて、教会一途の、教会の事だけに、教会という親を大事にするという時代が、私が非常に評判が良かった時分の事だと思うんですね。そして今度だんだん今度進めていきよったら、こりゃもうもういっちょ上の親があるという事に気が付きだしたところから、私の信心が少し異端視されたようになってきたですね。いわゆる天地、現在それがまだ続いておるわけですけれども、天地の親神様の、いわゆる神願成就のために一命を捧げるという事です。神願成就のために私の信心のすべてがあるんだと、それが私の信心なんですよね。いわゆる和賀心時代を創るといったようなそれは、やはり神願成就の事が、神願、神の願い、親の願いという事が分かったから親の願いに応えようとしておるわけなんですね。そしたらだんだんなら、親教会である親教会にも孝行をだんだんできるようになり、もちろん自分の肉親の親にはなおさらの事、決して撫でもさすりもしなければ、さあ何を食べなさい、こうもしてやらにゃ、着物一枚作ってやるわけじゃないけれども、むしろ親から着物作ってもらうぐらいな事、親からいろんなものもらうぐらいな事ですけれども、おかげを頂いて神様が親孝行させてくださるという感じ、神様が親教会には孝行させてくださるという感じ。昨日もその事を、合楽会の時に話したことでしたけれども、本当に親先生から初めてこの頃電話で御礼ば言われた、電話がかかってきた時また何か文句言い出したばいなと思いよったところが、そうじゃなくてね、もう本当にあの、もう一番初めに、愛子ちゃんの結婚おめでとうちゅうごたる風な事からね、もうとてもとても大体はもう、(保育?)もう間近になってからお届けにいくなら普通でいうならそうにやかましい事ですよね。けれどももうそげな事じゃなくて、ちょうど行った時にお留守でございましたから、まあいろいろ、本当にこれは、いわゆる本当の親孝行が出来てきたという感じがいたしますね。だから、これからまだもっともっと教会に対する親孝行を神様がさせて下さるなあと思うんですけれども、お互いの信心がね、育っていかにゃいかんのです。
そこんところがね、昨日私は、教祖様の思いわけという事を言われる、思いわけという事について合楽の人達にも聞いていただいたんですけれども、私共の場合なんかは思いわけしよるばってん、思いわけがですね、何か一緒になっとるです、はっきり分けていないです。例えばなら、怪我をしたと、例えば怪我をしたところが本当まあ大難を小難でおかげを頂いて有難かというてそれだけの事です。その怪我をした事と有難かと言うておる事が一緒になってもできん、その有難かというのがお礼の言葉にもならなければ、お礼の印も何もできん。ただ思うておるだけなんです。例えば教祖様の場合なんかは、お二人の、三人のお子様が、私は二人と思ったら御伝記この頃読ませていただいておったら三人ですね、三人のお子さんが疱瘡にかかっておられる。そして一人が亡くなられて二人助かっておられる。そこんところの思いわけの素晴らしい事に、三人の神主さんたちが舌を巻いてたまがったという事が残っておりますがね、もうあの、子供を亡くしたことに対する悲しみはもう人一倍悲しんでおられるんです、やはり。けれども、二人が助かったという事の思いわけです、もうはっきりしておられるです。悲しい事と、そして助かったという事は今度はわざわざ神主さんに呼んで、お礼のお祭をしておられる。まだあの、なら神様からいろいろお知らせを頂かれるとか何とかという、一まだお百姓の時代です。そして帰りにはお米とかお金とかたくさん、それこそ多すぎるぐらいなお礼を持たせて帰っておられる時に、神主さん達が、世の中には思いわけの良い人があるというて感心しておった。同じ村内にも疱瘡で死んだところもありゃあ助かったところもある。ばってん、けれどもんなら御礼のお祭までしたというところはない。ここんところの思いわけというものがはっきりと分けておられるという事です。だから私共がならこれが、まあ考えようですたい、あなた、三人病気しましたばってんが二人は助かって一人は亡くなりましたばってん、まあ二人は助かりましたけんで、まあ大難を小難でおかげいただいて有難いと思いますというだけの事です。だからはっきりしとらんけんお礼という事になってこないわけです、それが。思うとるだけで。思い分けという事。だからその、例えばんなら、正義さん達の場合なんかは、もう親孝行という事には一生懸命、というて天地の親神様に親孝行しよらんわけでもなからなければ親教会に尽くしよらんわけじゃないけれども、それはもう本当にまあ親がおかげ頂かにゃならんけん教会には参ってきよる、御用もしよるというぐらいの程度の事であって、昨日の朝の御理解でいうなら、それこそ胸を張って堂々と神様を現すような事が全然できてない。あれだけの合楽モードでおかげ頂いたばってん、神様のおかげという事はこれから先でん言わんとです。( ? )。もちろんここから( ? )いっとる人達も、他の人達は(挨拶?)は、もうほんの普通一般の事です。の、いうならば( ? )が、ただお祭りがにぎにぎしゅう、ならお祭りというのも形式的でしたけれども、これは合楽から私自体が行っておりますからそりゃあ立派なお祭でした。けれどそれだけの事であってから、本当に例えて言うならばこれは御取次を頂いて思い立ってから、皆さんのお世話にも大変なってご援助もいただいて有難いが、その有難い事の中にもうタイミングの素晴らしさ、もう日頃信心いただいておるおかげで、例えば(天気の上にも?)こういうおかげを頂きました。もう本当に昨日は植木の一杯が( ? )で真っ白うしとりましたのが、作やお湿りを頂いて、きれいにして今日はこんなおかげを頂いてといったような事を、いうならたくさんあるわけです。けれども堂々として胸を張って金光様の信心を現すというような事には、もうこれから先もできない人です。弱いわけです、だから。ですからこれも私は残念でたまらんのですけれども、まあ、結局私共の場合でも初めの間は親孝行したいの一念からの信心であった。今親孝行の一念の信心をしよりますから、けれどもいくら親孝行の信心を、んならお茶をお供えしても、例えばならお菓子のお供えをしてもですね、正義さんがいくらお供えをしても、御霊様がそれを飲まれたり食べられたりする、分かりやすく言うなら、という事はできんのです。神様が許されなければお茶一杯がいただけんのですから。ただ正義さんの親孝行の情には神様がほだされなさって、正義さん自信はおかげ頂くけれども、御霊がおかげ頂くという事じゃないです。これがまだ生身の親がおるならば撫でたりさすったりすりゃあ、うちの息子は親孝行だと言うばってんです、信心してもういっちょ親にすると撫でたりさすったりすることがなくなってくるです。そういうところがなくなってくるです、親に。これはもう私方を見ていただきゃあ一番よかでしょうが。もう九十三ですか、父が。それこそ痛いも言わなければ痒いも、辛抱しとるとじゃないです。どうんなかっです、実際に。というほどしのおかげを頂いとるでしょうが。それはもういっちょ上の、いわば親に、だから初めはそこからいかなきゃいけん。私共、情というのは同じですから、親孝行したいの一念というのは。だからもちっと信心が大きくならんと、豊かにならんと、育たんとです、それこそ昨日の御理解じゃなかばってん、立派な金光教という信心をさせて頂いておって、だぶだぶの着物であったり、丈ばずるずる引っ張っとるけんで実際いうたらおかしいという事。今朝の御理解でいくと、これはおかげを頂いておる事だけは事実、確かに美味しい料理だけれどもです、例えば餡かけとか、ケチャップで和えたごたる風な感じのつば、ちょっとこう付いとると何か汚らしくみえるでしょう。けれどもそれに、ならグリンピースか何かをパッとこう振ると、( ? )料理がね、生きてきて、何か食欲そそるようなものになるように、それがないわけです。正義さんの信心に。ただ親に孝行したいと、親を思う一念といったようなところから、これはしかし言うて聞かせて分かる事じゃなかろうごとある。やっぱり育つ、やはり育つ滋養というものをとらなければ太りもしなければ伸びもしない。これは人事じゃありません。正義さんにしてそれですから。そりゃあもうおかげ頂いておる事は、食べりゃあおいしいという今日の料理じゃないけれどもね、その素晴らしいおかげを頂いて、私はもう今度は何年ぶりで参りましたんですけれども、もう家も立派になっておりますし、庭なんかはまあそれこそもう本当に素晴らしい庭になっておりますし、今度あの事務所なんかもできて、しておかげ頂いておりますしね、従業員の上にもたいへんおかげを頂いておりますよ。もうどこ置いたっちゃおかげ。だからこれを胸を張って堂々と、私は金光様のおかげでこれだけのおかげを頂いたと言えれるね、信心を頂いていかなければ、本当の金光様の御信心の値打ちは一つもありません。ただ信心のなかったっちゃ親孝行の人はありますからね。というて親孝行したからというて親が楽になることじゃ決してないですよ。痛いとこをさすってやるからその( ? )のおかげにはなりましょう。けれども親孝行という事はんなら、もういっちょ上の親の孝行すると、親がもう痛いところがなくなる、こりゃあまあ分かりやすく言うとですよ、そげん言いなさったっちゃあんた方のばばしゃまでっちゃあげん具合の悪うあんなさるじゃないですかと言やあそれまでですけれども、けれどももう一つ上の親のおかげを頂いてのいうならば病気であったり痛いやら痒いやら( ? )が違うです。
皆さんの信心がまあどこらへんに、だから皆さんの場合なんかはもう一つ上の親に孝行したいというところがあるように思うですね。親教会、合楽教会のためにこうしてお祈りを捧げられるし、そのために奉仕もなさっておられるから、けれども根本のところの親に孝行したいは、私は正義さんに劣ってるのじゃないかと思うです。飛び抜けとるような感じがしますね。もう本当にあの徹底しとるです。私は昨日、あのちょうど二階に重雄さんと二人で上がってから御祈念しましたら重雄さんがたまがりなさったちゅうぐらいに私は感動しました。あの御霊様のお茶を四つ並べてお供えしてあるのに、はあ真ん中二つが両親ばいな、両端のが家内の里の両親の御霊様にお供えしとるとじゃろうとこう思うたら感動するんですよね。ですから、んなら、例えば昨日はあのような大変な事をするのですから、神様おかげを頂いて今日はいよいよオープンのはこびになりましたというて、お神酒の一本もどうしてお供えしとらんじゃろうかという事になるでしょうが。昨日はそればえらい言い訳してしよったんですよ。神様にお供えしとらんじゃったけんでち言うてから、いつでんでもしとるじゃん。で、昨日に限ってしとらんじゃったというような事を言うけれどもですたい、けれどもね、結局ならもういっちょ上に親ができとるならばとてもせにゃおられんです。ちょっと朝の御祈念をする前にお掃除をしたならば、今日はいつもよりかたくさんお供えがある、それこそもうお供えだけでもトラック一台きたそうです。あの、集めたちいう。だからそげんきとるとじゃけんどげん( ? )事でしょうが。けれども神様の前には何にも空三宝だけが置いてあるというような事でした。けれどもあの、言い訳せんならんくらいなまだ親孝行だという事が分かるでしょう。ところが親に対してだけはそうじゃない。親の御霊様に対してだけはそういう、あの、(大切にする?)。だからそれがもういっちょ上に育った時には、正義さんの信心がいよいよ大きくなる事でしょう。もういっちょ上の親ができた時に、いよいよ胸を張ってですね、例えばそういう時には非難をされる時があるですけれど、やっぱり非難の一つぐらいされる時でなからなければ、金光様の信者じゃけんというぐらいにならにゃですね、本当のおかげにならんです。
例えばなら平田さんのあたりの場合なんかは、もう親教会からでも今排斥されよんなさるですね。ところがもう平田さんの心の中には神様の手足になろうという事で一生懸命じゃん、今。だから神様の事を全国を回ってでもお話して回りたいというような時ですから、親教会にきっとご無礼になるもんですから、親教会からでも、こう何かね、言われよんなさるといったような雰囲気があるようです。けれどもこれは過程です。ですからなら、今ようやくなら私が三井教会からだんだん分かってきて頂けるようにね、これはもうその時、だんだん本当なことは本当な事として分かるです。これはもう絶対。ですからお互いの信心の進んでいっておる過程というか、おかげを頂かせてもらうまずは根本のところから、そしてこう、いっていかなければ本当の事じゃない。でないとその、情念が湧きませんです。親に孝行しとうてたまらんというその思いを神様に持っていくとですから。それを親先生に持っていくとですから。なら親孝行も、親孝行しとうてたまらんという情念もなしに、親先生ばちゅうてっちゃ、そりゃあえてして口だけになったり口先だけになります。
本当に信心が育つという事は、もっと素晴らしいよりよい大きな親に孝行したいという念が湧いてくる事だと思うですね。